8人から6人への再スタート

正直、心のどこかで内君がエイトに戻ってくる未来があると信じていたし、なぜか確信にも似た気持ちを持っていた。
そんな私が、今回すばるが退所することがきっかけとなり、
凝り固まった8人の関ジャニ∞への執着心に変化が出たので、
15年の節目としてeighter人生を振り返りつつ、現状の気持ちを残してみようと思う。


内君がいたころを知らない方が多くなる中で
いまだに内君が戻ってくると思っていたイタいやつがいるんだなと思われる方もいると思うし、
自分でもイタいことはわかりつつ生きてきた。
だからこそ、誰にも言えず、現実を受け止めきれずに悪化させていたのかもしれない。


バンドしているエイトを見れば、内君が戻ったらギターが4人になっちゃうし、
そうなったらバンド好きの人たちに叩かれちゃうかもと、内君が他に何の楽器が似合うかを勝手に考えたり…。
ちなみに私の中では、内君はタンバリンが一番かわいいという結論になってる。(革が貼ってあるやつ)
異論は認める。


他にも内君以外にエイトの末っ子と名乗ってほしくなかったし、

2009年の城ホールで『マーメイド』を歌ったことも受け入れられなくて、
イントロが聞こえた瞬間に頭が真っ白になるぐらいショックで、
8est(だったと思う)の味の素スタジアム公演で、Exciteのへブンリが画面に映り、
誰かの画面に内君の髪の毛が見切れたのを発見しただけで死ぬほどうれしくて夢にも出てきた。
という具合に中々拗らせていた。


いわゆる思春期に出会ったエイトは、いつも姉・兄・友人の好きなものを一緒になって好きなる
末っ子気質の私に、私だけの世界を作ってくれた。

嵐を知っている友達はいても、エイトのことを知っている人が周りにいない状況はすごく新鮮で、
今のようにSNSもない環境の中で、誰に薦められたのではない、自分から好きになったエイトは
いつの間にか私の生活にあって当たり前な存在になっていた。


エイトに出会ったのは2004年6月25日のMステ。
他のアーティスト目当てで見ていたが、そこにエイトもゲストで出ていた。
山P担だった幼馴染に連れられてにうすの握手会に行ったこともあり
内君と亮ちゃんのことは知っており、内君の顔の綺麗さに度肝を抜かれていた後だったため、
興味本位で早送りせずに流し見をしていた。
そこからは、あれよあれよという間にエイトにハマっていった。
ネットで顔と名前、年齢を確認しながらビデオテープに録画したMステを繰り返し見て情報を覚える日々がつづき、
大山田の顔を見分けられるようになったころ、
数か月遅れの『ほんじゃに』が地元のローカルTV局で放送していることを知り、
録画しては繰り返し見る日々が始まった。
地デジでもなかった当時、我が家のテレビはローカル局の映りが悪く、
ザラザラの画面、(雨の日は特に)を見て、大きくなったり小さくなったりする音声を頑張って聞いた。

(急な昭和感のある話だが、きちんと平成の話)


当時はとにかくネット上にあるエイトの情報を集めるのに必死だったのだが、
今思えば関東圏に住んでいる民にとって関西のテレビを見れないということは
エイトを応援するにあたって非常に不利だった。
エイトを贔屓にしてくださってた『なるとも』も『ちちんぷいぷい』も流れないから
情報が遅いし、コンサートをしても映像を見ることもできない。


その点テレ東の『裏ジャニ』には大変お世話になった。
最後の方は、彼女がAV女優だったらとかいう企画が始まりどうしようかとも思ったけど、
最新のエイトが提供される場は、そこしかなかったから、
エイトを見れるありがたさで、乗り越えてたように思う。
世の中に海でナンパ待ちをする女性がいることも、ギャルママのサークルなるものがあることも
ギャルに関することは良くも悪くも裏ジャニで知識を得た。
ギャルに対する苦手意識が強くなったのも完全に裏ジャニの影響だと思う…。

初の東京国際フォーラム。コンサートで8人のエイトを生で見る最初の機会。
ゲスト目当ての観客がいることをヒシヒシと感じるコンサートではあったけれども、
エイトが実在する人物であることを確認できた日になった。


ただの思い出話になってきた。
まだ中学生高校生ぐらいだったので、松竹座に通うことも出来ず
その時なりにエイトを心底追いかけていた。


そして、あの事件が発覚した日。
塾の休憩時間にネットニュースで見たときには、率直に怒りが沸いた。
法律を守れなかった彼に、アイドルでありながら自覚が足りないとしか思えない行動をした彼に、
一般人に迷惑をかけた彼に。
それと同じくらい悲しさが同時に襲ってきた。
お門違いと言われようが、まだ未成年だった彼を止めてくれなかった周りの大人に対してどうして、なんで、と。
でも当時は、彼以外の大人を批判する声がメディアでは少なく、ファンである私たちがそのことを言ったって、
責任転嫁している、頭がお花畑のファンというレッテルしか張られないことは目に見えていた。


私も、彼がその後グループに帰ってこないなど考えてもいなかったので、
彼を責めたし、休んできちんと反省して戻ってきてほしいと思っていた。


しかし、休業期間中、にうすの他のメンバーが事件を起こした。
もう少しで休業が明けるだろうと思っていた矢先の出来事だった。


今思うと、個人的には、これが彼がグループに戻れなくなった理由の
大きな出来事の一つなのではないかと思っている。


それからも、内君がエイトに戻ってくると信じ続けた私は、コンサートにピンクの服、小物をつけて参戦し
『8→1』の団扇も作った。


そんな中、2007年の47コンサート東京公演。
ダブルアンコールで亮ちゃんに手を引かれステージに上ってきた内君を見たときは、
目の前の現実が信じられず、ただただ泣くことしかできなかった。
これでやっと内君が戻ってくる。そう思った。
しかしこれが、8人の関ジャニ∞を見た最後の機会だった。


先行きが不安になり始めたのは復帰作であるPLAYZONEのDVDが、
出演者逮捕で発売が中止になったころ。本当にまさかの出来事。
これで、売り上げが高ければ、事務所・グループへの貢献度で評価が上がるのではと
期待していたのに。


それからは横浜アリーナ、代々木アリーナソロコンにも通えるだけ通ったが
エイトは段々人気が出てきて、追いかけるのに必死になってきた2009年、
アルバム『PUZZLE』が発売された。
当時、8人のエイトを忘れられないファンの中に衝撃が走った。
エイトへのインタビューから生まれたという表題曲『パズル』。


なくしてしまったひとつのピース

探しているよ 手を貸しておくれ


8人を望んでいるファンからしたら、深読みしすぎ、曲がった解釈だと、どんなに批判されようが
内君のことを歌っているようにしか思えなかった。
そこから、事務所あてに内君を復帰させてほしいとの手紙を送るという企画が生まれた。
もちろん参加し、私の思いのたけをはがき一枚にすべてを詰めた。
これが内君の復帰がかかった最後のチャンスだと、どこか漠然と感じていた。


と、内君がグループに戻りたかったのかどうかもわからないのに、
戻りたがっている前提で行動していたことを、振り返っている今、気づいた…。
当時は必死だったのだなと大目に見てください…。


この後から、コンサートにはピンク着ていかなくなり、
大倉君のブログから8→1表記がなくなったタイミングで
『8→1』の団扇も持たなくなった。
もう内君は戻ってこないのだと自分に言い聞かせるように、日々生きていた。
それでも冒頭に記載したように、7人のエイトに内君の面影を探し、
また8人に戻った時の妄想をすることも度々あった。


そして、2018年4月15日。
数日前、週刊誌の記事が出たときには、記事の内容にそんなわけがないと鼻で笑っていたのに。
こんな思いもう二度としたくないと思っていたのに。


ただただ、すばるがいなくなることに不安しかなかった。
それに状況は全く違うけれども、あの時のあの気持ちを、すばる担がもう一度繰り返すのかと。
コンサートに面影を探し、彼がいなくても先に進む、進められるエイトに不安、焦りを感じ、
置いてけぼりにされた感覚に陥る。あの気持ちに。


でも、私にとって関ジャニ∞というグループは、自担がいなくなったからと言って応援しないという選択肢が取れるアイドルではなかった。

今回の件は、もちろん辛い出来事ではあったけれども、だけどコンサートを経て、あぁ、6人でも大丈夫だ。これからも応援していきたい。と心から思えるまでになった。

語弊を恐れずに言うと、内君を心の中で引きずっていた私は、とてもスッキリとした気持にもなった。
それは内君の次に脱退者が出たから、もう内君が戻ることはないという確信になったからかもしれないし、
内君がエイトからいなくなった時に、直接メンバーの言葉を聞く機会がなかったため、
今回のすばるが脱退したことによる、メンバーの6人でやっていくという決意を内君が抜けたときのエイトと重ね合わせて見ていたのかもしれない。



まだ受け止めきれていないすばる担は多くいると思うし、
私みたいに何年も引きずる人もいると思う。

でも、確実に言えることは、関ジャニ∞
かわいくて、かっこよくて、魅力的で、元気をもらえて、すごくファンのことを考えてくれているということを改めて感じられた、再確認できた事は再スタートの大きな1歩だと思う。